今回の装苑の記事は
東海ウォーカーの連載「アトリエの前で」とは違い
北斗くん自身が書いた文ではなく、
北斗くんの発言を、彼ではない第三者が編集したものであるから
どの程度北斗くんの言葉がニュアンスまで相違なく表現されているか定かではない。
けれど、この文から読み取れる思いが北斗くんの思いだと、
読み取れたと思った感情が誤りではないと、願って今日も記事を書きます。
装苑11月号「偏愛とアイデンティティ 僕は自分らしく自由に着る。」
松村北斗くんの発言より。
そこらへんにいる何者でもないジャニヲタが
松村北斗くんへの共感、錯覚、愛しさを徒然なるままに。
衝撃の装苑11月号表紙
何せ雑誌が好きな私。
最初にTwitterで装苑11月号の告知が流れてきたとき、
インディゴのようにほんのりグリーンがさし、
美しく、でもその中に少しの恐怖のようなものを含有しながら濃淡混ざり合うブルー。
共存するのが当然のように存在するホワイト。
そして先ほどのブルーのちょうど真ん中の色に寄り添うようなトーンのピンク。
そこに存在する門脇麦さんは儚げで、でも決して自分の意思を手放していない。
主張するでも紛れるでもなく自然に確かな存在感を維持している。
虚無ではなく無色。
配色、文字の配置、被写体、表紙を作り上げるそのどれものバランスが美しい。
そんな風に私には見えた。
元々装苑という雑誌は何度も買ったことがあるので
「やっぱり装苑は良いな~。うっかり購入してしまうかもな~。」
などと思ったの覚えている。
そして次の瞬間に飛び込んできた
♯松村北斗 の文字。
(買います!!!!!!)
一瞬で購入することを決意した。
そして発売日当日、仕事を終えた私はまっすぐ本屋に向かった。
売り場に置いてある装苑は残り2冊となっていた。
装苑×松村北斗 共感と錯覚
前にも書いたが、私は松村北斗くんの価値観が大好きである。
彼の言っていることは分かりやすい。
自分と物事の考え方が似ている。気がする。
北斗くんの発言を聞いていると、自分がもう一人いて話をしているような錯覚を覚える。
(我ながら頭の悪いことを言っていると思う。)
今回もただならぬ共感と衝撃を受けてこの文章を書いている。
装苑×松村北斗 タイトル
まず“偏愛とアイデンティティ僕は自分らしく自由に着る”というタイトル。
これはあくまで個人的な感覚の話だが、私の場合“私”と“自分”は同じ人間のことを指しているけれど、違う概念なのだ。
あくまで「僕は僕らしく」ではなく「僕は自分らしく」なのだろうと思うと痺れる。
装苑×松村北斗 年齢も性別も超えて
北斗くんの好きなところは、
身体つきも特段華奢な訳ではなく、どう見ても男性なのだけれど、
性を意識させない雰囲気を持っているところだ。
女性的になるのではなく、男くささを削ることにより性ではなく一人の人間そのものとして存在しようとしているように見えるところ。
私は元々女性らしさとか男らしさという概念や表現が嫌いで、自分自身も中性的と言われることが多い。
女性にしては身長も高く、学生の頃は特にシャツが好きだったので、メンズのものもよく着ていた。
好きなものを選択するときにそれがどんな性に向けて作られたものなのかなんてことは関係ないと思う。
“年代もサイズも性別も超えていて、そこから探す楽しさ、出会える喜びがあって。”
という表現に深い共感を抱いたと同時に泣きたくなるほどの嬉しさを感じた。
装苑×松村北斗 衣装への憧れ
最初のビジュアルを見て、
ラジオで「新曲の衣装は自分の私服を衣装さんに見せて作ってもらった」
ということを話していたのを思い出した。
色の配分、丈感、すべてのバランス、感覚が北斗くんそのものだと思った。
衣装に憧れをもった少年が服を好きになり、その服を基に衣装を作ってもらう。なんて素敵なことなのだろう。
私はただの客の一人だけれど、それはとても喜ばしいことだと思った。
装苑×松村北斗 好きだから着てる
私は仕事でファッション系の小物を扱っているが、
元々ファッションにはあまり興味がなかった。
ただただその物が好きだった。
北斗くんの「好きだから着てる!」は私の「好きだから着けてる!」と同じなのだと思った。
好きだから服を着る、好きだから爪を塗る、好きだからいろいろなカラーのアイメイクをする、好きだからジュエリーを身につける。
そうやって身につけるものを選択する私は北斗くんの感覚を似ていると思った。
これはライフハックなのだが、
好きで自分を埋め尽くす。
そうすると自分は好きばかりで構成された人間になる。
好きを少しでも自分に近いところに置くことで自分が好きだという錯覚を起こせる。
装苑×松村北斗 ただそれが欲しいかどうか
私も北斗くん同様、服を買うときにコーディネートは考えない。
ただ一つ、その物にトキメクどうかだけを考えて購入の選択をしている。
だから、柄や原色、形の変わったのものが増えて柄ばかりでコーディネートに困るという事態に陥る。
(柄が好きなのは分かっているのだからトップスかボトムスどっちかは意識的にシンプルなもの選ぶようにしような。)と自分に言い聞かせる。
言い聞かせておいて懲りずに私はまたトキメク感覚を信じてクセのあるものを買う。
北斗くんがあまりに自分と同じようなことをしていて共感を通り越して思わず笑ってしまった。
装苑×松村北斗 服は絶対に捨てません
“せっかく買ったのに着ていない服も結構ありますけど、服は絶対に捨てません。”
これまた共感の嵐であった。
もっとも私の場合は雑誌やCD,DVD,グッズなどがそれにあたるのだが。
自分が好きで買ったもの。
それを捨てるわけがない。
使うか使わないかよりも自分が所有していることが大切なのだ。
物の価値の基準は一つではない。
物を所有し収集することは、トキメキや愛しさを可視化してコレクションすることなのだ。
その幸福感を他人に評価される筋合いはないのである。
装苑×松村北斗 服にしかお金をかけていない
好きなものにしかお金をかけない。
その価値観も深く共感する。
本当に欲しいものを手に入れる。
それ以外なんて興味のないことなのである。
無駄を極端に削った方が自分の好きだけで埋め尽くすことができる。
装苑×松村北斗 自分が好きな服を、好きなように着る人たち
先日柄物のパンツを履いていたら友人に「なにそのパンツ可愛い。」と褒められた。
「ありがとう。」と返すと、Itsusoだから似合うんだよ。と言われた。
そのパンツが似合うかどうかなんて考えてもみなかった。
ただ私は好きなものを身につける。
何を選ぶかが私らしさなのではなく自分の好きなものを身につけるのが私だから。
北斗くんの言う
“自分が好きな服を、好きなように着る人たちであふれかえったら”
その光景の一部に私はなれる。
北斗くんがそうあり続けるように私もそうあり続ける。
これからも自分らしくあってほしい。
なんて言うのはエゴだが。
自分らしさを追求し続ける人が世の中の人に愛される世界は希望である。
こちらもご覧ください→松村北斗くんの連載「アトリエの前で」を読んで。 松村北斗くんはとっくに腐った豆なのか
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