松村北斗くんの連載「アトリエの前で」を読んで。 松村北斗くんはとっくに腐った豆なのか

SixTONES

今日は誰得でもない話をする。

私は松村北斗くんの、発言、綴る言葉が大好きだ。

そして彼の思考回路は私が今まで見たことのある人間の中で一番自分の思考回路に似ている。と思う。なんて言うのはおこがましいことだが。


ネットの海の片隅で、これくらいのうぬぼれを綴ることを許してほしい。


彼の言動行動にはこれまで感じたことのない強い同感が生まれる。


今回は東海ウォーカーの松村北斗くんの連載「アトリエの前で」を読んで思ったことをつらつらと書いていこうと思う。



私にとって松村北斗は真っ白い蓮の花である。

松村北斗くんの名言:数か月前の自分とは違う

自らをとっくに腐った豆と称して終わった今回のコラム。


「腐った豆などと卑下しないで」と嘆くヲタクもいるが私はそうは思わない。

彼はしっかり希望をくれた。


冒頭で数か月前の自分とは違うと言い切っている。

それだけで私がどれだけ救われたことか。


人はどれだけ成長すれば過去の自分とは違うと言い切れるのだろう。

豆腐は豆には戻れないけれど腐ったと思い込んだ豆は腐ってなんかいなくて、ちゃんとつるなりなんなりを伸ばすことができるのだと思う。

松村北斗くんの名言:お前がいないとつまらない

北斗くんは“そいつがサボりがちになったころ”と表現しているが

これは本当にそうだろうか。


「お前がいないとつまらない」その言葉はどれだけの愛を含んでいるのだろう。

言われた相手にとってどれだけ嬉しい言葉だろう。


もしかしたらこの一言が北斗くんの友人の彼を救ったかもしれないとすら思う。


北斗くんに「お前がいないとつまらない」と言われた相手は

そのたったのひと言で、

「松村北斗と一緒にいるだけで松村北斗に面白さを与えられる人間」に昇格するのだ。

そしてその役割は他の誰でもない彼だけに与えられたものなのだ。

北斗くん自身が彼に松村北斗の隣という場所を作ったのだ。



北斗くんがこのエピソードを記憶しているという点も面白い。

そのことを北斗くん自身は自覚しているだろうか。

北斗くん自身が彼に(自分以外の他者に)影響を与えたエピソードなのだ。


北斗くんはこのエピソードを、

彼が親切にそして親密に接してくれたことに対する感謝を含んだニュアンスで綴っているように思うけれど、これは自己肯定感が高くなければ書けないエピソードだと思う。

北斗くん自身が彼に価値や居場所を与えたのだ。


このエピソードを読んでいて

高校時代に歌った「僕が守る」という曲名の合唱の歌詞(作詞:銀色夏生)

を思い出した。

以下はその抜粋である。

生きる理由がわからないというなら
その理由を僕があげよう
君がいなくなると僕は困る
だからそこにいてほしい

いつか君が僕を守ってくれたから
次は僕が 誰かを守りたい



当時の二人はわざわざ二人の関係性について考えたりはしなかったと思うけれど

この頃の北斗くんと友人の関係はこんな風だったのではないかと私は思う。

松村北斗くんの名言:その約束を待たせたままの僕とあの日の夢を絶った旧友

北斗くんが語ってくれない以上、

北斗くんがした約束が何なのかは知る由もない。


でもきっとそれは知る必要のないことなのだと思う。

北斗くんが語らない以上。


約束を待たせる人間、夢を絶つ人間、どちらが偉いわけでもない。

でも一つ言えるのは、夢を抱き続けることも、夢を絶つことも、選択なのだ。

別々の選択をした二人。

しかし二人とも、あの日の約束の内容を忘れたわけではない。

二人ともそれぞれの意思を持って、ちゃんと選択をしながら生きている。


いずれにしても選択をしたことそのものが素晴らしいと思う。

松村北斗くんの“おっくう”という表現

一段目と四段目に出てくる“おっくう”という言葉が印象的である。

そこについて深く触れているわけではないが、北斗くんは物事に対しておっくうになる自分に悔いているのではないかという印象を受ける。

松村北斗くんの名言:悔しいほど鮮やかな電撃

北斗くんには悔しいという感情がある。

それが私にはひどく眩しい。

物事をまあそんなもんだろうと諦めない、自身への期待を断ち切らない強さを持っている。

槇原敬之さん作詞作曲の歌を思い出す。

曲名はROTUS IN THE DIRT

みんなそんなもんだよ
その言葉に何の意味があるんだろう
そんなことを分かり合うために
人は人の中で生きているの?



わがまま故に人の中で生きている自覚を失い、その自覚を求める人間は孤独を恐れ

人に紛れ自分が何であるかを見失うことを恐れる人間はわがままでいようとする。


両者は違う性質を持った人間なのだ。

どちらが劣っていてどちらが優れているわけでもない。

北斗くんはきっとそのことを自覚している。

自分とは違う性質を持った人間に健やかな美しさを見出している。

松村北斗くんはとっくに腐った豆なのか

“とっくに腐った豆”という表現でこのコラムを締めくくった北斗くん。

冒頭の文で「自分はもう腐った豆なんかではない」と

もう立派につるを伸ばし始めていることを声高らかに宣言しているようにも取れたが、

それもきっと違うのだろう。

北斗くんは腐った豆が悪いとは言わない。

それは北斗くんの変わらない(というよりもこれからも自己を追求していこう)という覚悟でもあるのだと思う。

やっぱり松村北斗くんはとっくに腐った豆なのかもしれない。

松村北斗くんの名言:新たな挑戦は、いくつまでできるのだろうか

北斗くんは今回“新たな挑戦は、いくつまでできるのだろうか”というフレーズで始めた。


この秋私はブログを始めた。

北斗くんよりも少しだけ早くこの世に生を受けた私。

いくつまでなんてことは分からないけれど、まだまだ挑戦は続く。

つるを伸ばす豆ではないけれどそれでも私は生きていく。

私はとっくに腐った豆である。

コメント

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